About
江口 祥世 / Yoshitoki EGUCHI
ウェブにおけるデザインのあり方を考えます。
音楽や芸術など、表現に対する興味もあります。
言語
HTML, CSS(Scss), Javascript
使用ツール
Adobe Photoshop, Illustrator, Indesign, XD(実務)
Figma, Visual Studio Code, FileZilla(実務)
WordPress, Github(知識)
Adobe Premiere Pro, Reason, Touch Designer(制作経験)
ウェブにおけるデザインのあり方を考えます。
音楽や芸術など、表現に対する興味もあります。
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Contact
e-mail:info@piyoccoartist.com
Statement
アーティストが表現する。それは私たちが五感を通して知覚することができるものである。表現のためにアーティストは選択をする。作品のモチーフ。作品の支持体。作品のために使用する道具、等々。その選択は、アーティストの、この世界に対する態度といっても差し支えない。まずは、その態度をみるところからはじめる。
私たちは意識的にしろ無意識的にしろ、なにかを考え、他者に伝達するためになにかしらの表現方法をとる。手段は様々だ。例えば言語を使うとして、喉を振動させ、口の形を変化させることで発音の違いをつけながら「話す」方法や、腕や指先の筋肉を器用に伸縮させながら、インクが滲み出る「ペン」と名付けた道具を用いて「書く」方法。もう少し掘り下げるならば、話しながら身振り手振りをするかしないか、声に抑揚をつけるかつかないか、書くほうでいえばペンや紙の種類、手書き文字の癖や、丁寧に描くか乱暴に書くか、等、ひとえに伝達のための表現といったところで、伝達の仕方は無限に存在する。
私がなにかを考えて、それを他者に伝達するときに、例えば外を歩きながら、それを伝えたい誰かの目の前で話す形態をとるとする。大抵の場合、頭の中で考えずとも自然と口から言葉が出てくるのは、身体が無意識と繋がっているからだ。無意識の中でまだ言語化されていなかった考えが、会話を触媒として化学反応をしているように言葉が出てくる。目の前の相手から発せられた言葉に反応して、自分の口から言葉が出ていくことに任せてみる。時には自分の発した言葉に翻弄され、時には後悔し、また時には納得したり感心したりしながら、会話は進行していく。ここで留意したいのは、自身は無意識の中にあったものが言葉に変換されて出てきているだけだと感じていても、言葉を受け取る側からすると、その言葉を発している身体、その容姿、表情の動き、声のトーンやスピード、喋り方のクセ、声色に加え、立っている周りの景色、遠くから聞こえてくる音、肌にあたる風や肌に触れる服の圧迫具合、漂ってくる街の匂い、歩き疲れて足に溜まった疲労感など、私の預かり知らない多くの情報と共に、その考えを受け取っているという点だ。私の精神と、私が私の身体を使って行う表現とには、決定的な乖離がある。
作品を鑑賞するとき、それを注意深く観察すれば、ひとはそこに作者の精神の幻を見る。鑑賞者は、自身の精神が作者の精神と対峙し、あるいは包まれているように感じ、そこに空間や時間を飛び越えた深いコミュニケーションが成立する。幻といったのは、実際に対峙するのは作者ではなく、鑑賞者自身の精神だからである。作品はそれを鑑賞する個人の精神を反射するようにして映し出す。そして、作品を通じて鑑賞者は、自身の中にある、これまでには感知し得なかった領域を発見するのである。そうである以上、美術作品の意味するものはそれを受け取る個人あるいは時代によって大きく変化することになる。時代が変わっても残り続けるものは、時代の推移とともに忘れられてゆく流行から離れ、精神の普遍的な部分に作用する力を持った表現であり、同時にその時代でないと生まれ得なかった必然性のようなものを持ち合わせている。
表現は、地上を覆うあらゆる鎖から私たちを解放させ、人間を真に精神的な状態へと導いてくれる鍵である。それは表現された「もの」と表現を受け取る者の対話の中で生まれてくるものであり、私は、そのコミュニケーションを生み出すことが、表現の持つ役割だと考える。表現を通じて交わされるコミュニケーションは、形而下の世界に囚われない精神と精神との対話である。
私たちは意識的にしろ無意識的にしろ、なにかを考え、他者に伝達するためになにかしらの表現方法をとる。手段は様々だ。例えば言語を使うとして、喉を振動させ、口の形を変化させることで発音の違いをつけながら「話す」方法や、腕や指先の筋肉を器用に伸縮させながら、インクが滲み出る「ペン」と名付けた道具を用いて「書く」方法。もう少し掘り下げるならば、話しながら身振り手振りをするかしないか、声に抑揚をつけるかつかないか、書くほうでいえばペンや紙の種類、手書き文字の癖や、丁寧に描くか乱暴に書くか、等、ひとえに伝達のための表現といったところで、伝達の仕方は無限に存在する。
私がなにかを考えて、それを他者に伝達するときに、例えば外を歩きながら、それを伝えたい誰かの目の前で話す形態をとるとする。大抵の場合、頭の中で考えずとも自然と口から言葉が出てくるのは、身体が無意識と繋がっているからだ。無意識の中でまだ言語化されていなかった考えが、会話を触媒として化学反応をしているように言葉が出てくる。目の前の相手から発せられた言葉に反応して、自分の口から言葉が出ていくことに任せてみる。時には自分の発した言葉に翻弄され、時には後悔し、また時には納得したり感心したりしながら、会話は進行していく。ここで留意したいのは、自身は無意識の中にあったものが言葉に変換されて出てきているだけだと感じていても、言葉を受け取る側からすると、その言葉を発している身体、その容姿、表情の動き、声のトーンやスピード、喋り方のクセ、声色に加え、立っている周りの景色、遠くから聞こえてくる音、肌にあたる風や肌に触れる服の圧迫具合、漂ってくる街の匂い、歩き疲れて足に溜まった疲労感など、私の預かり知らない多くの情報と共に、その考えを受け取っているという点だ。私の精神と、私が私の身体を使って行う表現とには、決定的な乖離がある。
作品を鑑賞するとき、それを注意深く観察すれば、ひとはそこに作者の精神の幻を見る。鑑賞者は、自身の精神が作者の精神と対峙し、あるいは包まれているように感じ、そこに空間や時間を飛び越えた深いコミュニケーションが成立する。幻といったのは、実際に対峙するのは作者ではなく、鑑賞者自身の精神だからである。作品はそれを鑑賞する個人の精神を反射するようにして映し出す。そして、作品を通じて鑑賞者は、自身の中にある、これまでには感知し得なかった領域を発見するのである。そうである以上、美術作品の意味するものはそれを受け取る個人あるいは時代によって大きく変化することになる。時代が変わっても残り続けるものは、時代の推移とともに忘れられてゆく流行から離れ、精神の普遍的な部分に作用する力を持った表現であり、同時にその時代でないと生まれ得なかった必然性のようなものを持ち合わせている。
表現は、地上を覆うあらゆる鎖から私たちを解放させ、人間を真に精神的な状態へと導いてくれる鍵である。それは表現された「もの」と表現を受け取る者の対話の中で生まれてくるものであり、私は、そのコミュニケーションを生み出すことが、表現の持つ役割だと考える。表現を通じて交わされるコミュニケーションは、形而下の世界に囚われない精神と精神との対話である。